己と向き合う

 日本古来から根付いている仏教から、食事・睡眠について考えてみたいと思います。仏教の修行の中に(仏教の中にも宗派がありますが、細かいことはわかりません(⌒-⌒; ))、千日回峰行といわれる苦行があります。

wikipediaからの抜粋ですが、千日回峰行とは、比叡山又は吉野山山内で行われる、回峰行の1つ。満行者は「北嶺大行満大阿闍梨」と呼ばれる。「千日」と言われているが、実際に歩くのは「975日」である。「悟りを得るためではなく、悟りに近づくためにやらせてもらっている」ことを理解するための行である。7年間にわたって行う。1〜3年目は年に100日、4〜5年目は年に200日行う。無動寺で勤行のあと、深夜2時に出発。真言を唱えながら60箇所で礼拝しながら、約30kmを平均6時間で巡拝する。途中で行を続けられなくなったときは自害する。そのための「死出紐」と、短剣、埋葬料10万円を常時携行する。

 5年700日を満行すると、最も過酷とされる「堂入り」が行われる。入堂前には行者は生き葬式を行い、無動寺明王堂で足かけ9日間(丸7日半ほど)にわたる断食・断水・断眠・断臥の4無行に入る。堂入り中、行者は真言を唱え続ける。毎晩、深夜2時には堂を出て、閼伽水を汲み、堂内の不動明王にこれを供えなければならない。水を汲みに出る以外は、堂中で10万回真言を唱え続ける。

とあります。千日回峰行中の食事はというと、大きな握り飯(梅干し入り)2つと素うどん、じゃがいもを蒸したもの程度の簡素なものといいます。1ヶ月もすると血尿がでて、栄養失調で爪が割れてくるらしいです。また4無行中は水も飲まない状況で9日間過ごします。3日程度すると死臭がするといいます。ただ同時に感覚も研ぎ澄まされていき、お線香の灰が落ちる音さえわかったといいます。

「貧すれば鈍する。」などという言葉がありますが、果たしてそうでしょうか。上記の修行僧の例では、貧するも(瀕するも)身体感覚は十二分に発揮され、人間本来の強さを垣間見れます。もちろん私を含め、修行とは無縁の生活を営む方が行なったら最悪の結果を迎える確率が高いと思います。ただここで申し上げたいのは、人間の本来の機能はとてつもないものであるということです。それを様々な環境的要因で制御してしまっているようです。

ただそんな徳の高い修行僧でもこんなことをお話ししています。「それでもやっぱりまだ山のなかだけなんですよ。俗世間に近いふもとの修業道場に降りてみると、そこにはいろんな人間関係があり、ふたたび悩みや迷いの世界に入って行きました。山ではあんなにわかったつもりだったのに、どうして出来ないんだろうと自己嫌悪に陥ります。悶々としている自分がいます。それでまた次の年の行に入り、繰り返しになるんですが、最後には悟りが開けてわかってくるんですね。繰り返し、繰り返し、同じことを情熱を持って続けていくと、解脱して悟りにたどり着く可能性が出てくるんです。お釈迦さまが仰っていますように、修行とは繰り返し、繰り返し、同じことを情熱を持ってやることなんでしょうね。」と。

 修行僧とまでいかずとも、自身の体の内面に意識を向け、心の豊かさを育んでいきたいものです。

関連記事

  1. 心身相関について

  2. 睡眠の「質」をあげる

  3. 施術環境について

  4. 理学療法士なのに、提供するのは理学療法ではない!?

  5. 第3の場所を目指したサロン作り 

  6. 入院期間短縮のメリットとデメリット

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

 

 

PAGE TOP