8月になりました。先月もたくさんのご新規の方にご利用いただきました。ありがとうございました。開業して半年が経ちブログを通して「心身」の関連性をお話ししてきました。「心」と「体」は紙の裏表のようなもので、分けて考えることが出来ないものです。またこれまで述べてきたような心身の反応(痛みや自律神経失調症状など)はいわば「死」を回避するための一種の適応反応であり、これらの反応がない(感じられない先天性無痛症など)場合、生命予後に大きく関わってきます。痛みなどのいわゆる不快な症状についてポジティブな面も考慮しつつ、「死」というものに対する認識を改めて問うことで、痛みなどの不快な症状への認知が変化するかもしれません。
紙には「表と裏」があるように「心と体」も分けて考えることができないものですが、同じように「生と死」も同様に分けて考えることができません。今までのブログではこの「生」の中の「心身」にのみフォーカスしてきましたが、「死」についても考える必要がありそうです。
まずここで「生」と「死」の曖昧さについて考えてみます。「死」については昨今、臓器移植などのニュースで度々議論になっていますが、一体どの時点で「死」と判断するべきなのでしょうか?
心停止?
脳死?
意識がなくなったら?
重度認知症のように、その人の人格そのものが無くなったら?
同じことが「生」でも考えられます。何をもってその方が今生きていると判断できるのか。例えば椅子に座って仕事をしている私が、明日も椅子に座って仕事をしている私と同一であると、何をもって判断できるのでしょうか?
見た目?
価値観などのidentity?
人間は約50兆個の細胞で構成されていますが、毎日膨大な数の細胞の代謝を繰り返しており、またidentityに関しても10年などの長いスパンで考えるとわかるように大きく変化していきます。つまり厳密には昨日の自分と今日の自分は異なりことがわかります。代謝という「生と死」を細胞レベルで「日常」的に繰り返しているのです。今の自分は1分後の自分とは厳密には別人ですが、環境との相互作用で今の自分が連続していくと解釈する方が自然です。「生と死」の定義はそのような医学的な面や宗教的な面、人道的側面など多岐に考慮されるため、一定の見解を得ることは難しいようです。
そんななか東大病院で最先端の心臓外科手術などを専門にしながら、山岳医療や在宅医療にも関わり、また医学だけでなく思想や宗教や哲学や芸術も同時に思考し実践している稲葉俊郎さんは眠ることはいわば「死の体験」なのだと語っています。
細胞レベルでも「生と死」を日常的に繰り返していますが、生活レベルでも「生と死」を日常的に繰り返していたのです。「死」は特別なものではないということの理解と、過去に囚われず今を生きるためのヒントが「死」にはあることがわかります。
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